広島旅行


1999年6月から2000年4月の間、僕は躁状態であった。寝ている時以外はいつも幻聴と遊んでいた。
「お前は痛風でフーテンだから通(痛)風天だ。」「そうか、それで?」「痛風が酷くなったら大ツウフウテンだぁ〜」「わ〜い、わ〜い、つーふーてん、つーふーてん♪」「…面白いなあ。」
「光よりも速いのは考える速さだ。宇宙の果て、クエーサーのその先は光よりも速く膨張している。だから見えない。」「人間の考える速さで感じとれっ!」「…う〜ん、…う、だめだ…。」
また、不思議なことも多々あった。「赤塚不二夫が危篤だ、治すにはお前がどれだけガンバレるのかにかかっている。」歩道と車道の間に長く続く植え込みに無数に散乱した吸殻、ゴミを「限りなく拾って行け」というのである。僕はコンビニの袋に素手でひとつひとつものすごい速さで詰め込んでいった。その間も「苦しい〜」だの「持ち直した」だの聞こえてくる。30分ぐらいたっただろうか「よし、もういいだろう」の合図で僕は拾うのを止めた。後にちょうどその頃、彼が食道を手術していたことを新聞で知ることになり、驚いた。おれに指図したあいつ(幻聴なのだが)は一体誰なんだ…。と思ったものだ。あるいは、表参道の地下鉄出口を抜けてこの通りを真っ直ぐ進むと…、渋谷…、のハズが神宮球場前に…、僕は道を間違ってはいないつもりだった。ワープしたかのような錯覚だ。
広島に旅行した時、あの世の仕組みを少しだけ見せられた。ような気になった。
これがあの世か…。行き交う人達に血が通っていないとゆうか、蝋人形のように見える。そしてやたらトラックやダンプがブレーキを鳴らし「チィッー、チィッー」といっている。「血のことだよ…」突然雨粒が僕の足元に落ちてきた。ほんの二滴か三滴。「チィッー」とくるたび雨粒が落ちてくるから、これを体にうまく当てろという。体に当った数、点数みたいなものをかせいでいく。これは難しかった。おそらく体には一滴も当らなかったのではないか。しばらく歩いて行くと、土手の道、交通量が多く歩道が狭い。車がかすりそうになりながら通って行く。ここはさっきまでの層とは別のその上の階層の世界であることを告げられた。2車線、右の歩道を歩いていると向こうからかなりのスピードで車が向かってくる。それが一台一台皆、対向車線によろよろはみ出しながら向かってくるのだ。今度は、彼方からやってくる車のタイヤを見つめて念じ、真っ直ぐ進むように方向修正しろという。これは簡単にできた。ああ、これがあの世なのか。どのぐらいたったろう。時計を見るのを忘れていた。あたりは日が落ち、どっぷりと暮れていた。あれはそば屋ではないか。ドライブインだ。中に入るとなんら普通と変わらない、つんくに似た客がいてオッと思ったくらいだ。僕は熱燗と天ぷらそばを頼んだ。熱燗をやってとろんとしていた。しかし、ここで入って来た6,7人の団体客がまた作り物みたいな顔つきだった。僕は内心、あいつら宇宙人のへんげじゃないのか。と思った。そして気になったのは、彼らが席についてお品書きかなにか見ながら「チッ」「ん、チッ」「これからは、チッといかなきゃ」と言っていることだった。彼らは、ちょっと説明しにくいのだが、「チッ」と言うタイミングが誰も絶妙で 僕をハッとさせる。「チッ」とくるかな、と待っている空気のときは言わない。気を抜くと「チッ」とくる。「チッ」「ん、チッ」僕は疲れてきていた。おぼろげに、この「チッ」は空間と空間を仕切るカーテン(のようなもの)を開くときの音、と聞いて、そうか、と思った。勘定。当たり前に済ませ店を出る。外は5月でまだ寒かった。あたりに旅館なんて無かった。僕は、そば屋のエアコンの外に出してある送風機?の風が温かいのに気づき、傍で横になった。一度か二度、目が覚めたが、朝日が昇るのは意外と早かった。でかい太陽に見えた。コンクリートで背中が痛かったろう。僕はまたてくてく歩き出した。ここではひとり、ひとつの宇宙、ひとつの太陽を持って、何処へいくのかわからないが、卒業みたいなことらしい。
よく覚えていない。この後の記憶がまた夜なのだ。曲がりくねった農道らしきところを歩き、田んぼのあぜ道をわたり、明かりの見える方にいくと、ラブホテルがあった。この夜はここに泊まった。次ぎの日の朝、枕元の時計に「K−1 I39時間」と、デジタル表示があったのを見て、ここは何処か今までとは違う別の世界なのではないか、好きなだけこの部屋にいていいのではないか、と思った。テレビに∞マークが画面いっぱいに映り、垂直線が左右に振れていた。何か空間の移動、ワープに関係することを説明していたような気がする。それからまた眠ったと思う。…電話が鳴った。延長料金が必要だと言う。僕はもう小銭しか持っていなかった。払えないかなんか言ったのだろう。店員のおばさんがやってきて、ドアを開け、部屋を出てくれと言う。僕はスッポンポンで寝ていたのだろう。丸だしのまま「僕は宇宙人だっ!」と応えた。おばさんは僕のそこを見てなに、普通の男のそれだったから気が抜けたのか、一呼吸おいた後「はやく出てっ!」とせかした。僕は得心がいかなかった…。が、あまりに「はやくっ、はやくっ」とせまってくるので、急いで服を着て外に出た。…延長料金を請求された。僕は有り金を見せた。やっぱり払えない…。警察が呼ばれた。何を聞かれたのか、よく覚えていない。ただ、この頃の僕はこの不思議な声は誰にでも聞こえてくるものと思っていた。この世界が何であるかということだ。もう一年以上付合ってきたのだ…。「聞こえない人には、電話やメールとかであるみたいですよ。」「風と水のバランスが崩れて…」どうたらこうたら、とは言った。パスポートとキャッシュカードのコピーを控えられ、これからどうするのか聞かれ、「山口に行く」と応えた。僕はラブホテルを後にした。「地球時間」午前0時何分かだった。
次ぎに覚えているのは、その日の朝。県道か国道か知らないが多分山口に向けて歩いていた。「ツーフー」「ツーフー」風を切って走る車の音。僕が痛風だから…と解釈した。つまらない、本当に…。…分かれ道。道標に「広島空港→」とあった。乳母車を引いたおばあさんが通った。僕は何を思ったか、おばあさんに、「すいません。空港に郵便局のお金下ろす機械ありますかねぇ?」と聞いていた。すぐに応えはなかった。何言か交わし、「飛行機たってだめだあ、クルクル回って降りるところねぇんだぁ」としゃがれ声でおばあさん。ああ、この世界ではそうなんだ。飛行機はずっと旋回したまんまなんだ…。乗客は一体。…今日はまだ日が高い。僕は来た道を引き返すことにした。バス停に最寄駅を確認する。それからはもうこの旅の終りだった。数時間歩きはしたが、駅近くの郵便局で金を下ろし、東京方面へ向かった。何処の駅で乗ったのか何行きだったのかは覚えていない。ボックス席でウイスキーをひっかけ、チキンを齧っていたのだが、いつのまにか青森行きの列車で眠りこけている僕の記憶にやっと、繋がっている。
さて、僕は広島に何日滞在したのだろうか。判らない。そんなことはどうでもいい。まだ断片的に覚えていることがある。いつかの夜、駅に迷って道を尋ねた、黒いレインコートを着た死人のような顔の男。何も応えてはくれなかった…。歩いても歩いても決まって同じ場所に戻る。電話ボックスの中で雨をしのぎながら「ああ、これがあの世…。おれは一生、いや、永遠にこの街から出られないのか。さまよい続けなければならないのか…。」と絶望したこと。いつかの午後、広島駅のオーロラビジョンがしきりに「くるくるピー、くるくるピー♪、さよならピー、さよならピー♪」とわめき、空が映画のように大音響で叫びかけてきたこと。あの世の仕組みの記憶であるのは確か、なのだが。