ギブソン


初回1992.10.3江古田マーキーLiveで気を良くし、友人からの借り物であったHeadWayを済ますと、もう自分にはMartin(D-35)しかない。次回ステージに立つのに気に入らないのは、同じくカラーが拓郎氏を意識した中央の黄から外側につれての黒、サンンバーストではないことであった。上京して5年目、懐に余裕はあってギターに繊細さよりストロークの鳴りを重視したいとの外面で、氏のJ-45を求め御茶ノ水に向かった。

当時一括で21万、2、3万程の差であったと思う。指板のポジションマークとピックガード、選んだJ-30は至ってノーマルであったが、模倣を妥協するのは僅かの躊躇で、何か音楽、氏に対してのおこがましさを感じていたのかもしれない、それはハードケースにあるGibsonUSAのロゴをわざわざガムテープで塞いで貰うというスタッフも首を傾げる可笑しさでもあった。そして一週間も経たないうちに、泥酔でロフトベットから降りる際ギタースタンドに引っ掛け、フローリングの床でネックを叩き割ってしまう。

DOVE、27の頃であったと思う。路上で弾き歩きをしていたテンションで、予てから仰ぎ見ていた町田の楽器店で28万程を一括で支払った。ハードケースを預け、そのままストラップを被り街に繰り出し、或る日の休日早朝の電車内で喫煙、こんな綺麗なギターは似合わないとボディに押し付けた。そして数日後、新百合ヶ丘でまたその衝動が起き蹴り飛ばした後、ネックを掴んで街路に叩きつけた。

何度リペアに出しただろう。随分とJ-30には酷い扱いをしてきた。炎天下、浸水、サイドボディの深傷(ふかで)に、それでも。実はこれが自分の女性に対する本性ではないかと、ふと思う。憧れから結婚、実生活。何時までか…自分はもう、ギブソンは買わない。ずっと最後と決めている。

2024.9.25